怠惰に創作

細々と小説の様なものを創作しています。設定など思い付いたように変更しますので、ご容赦ください。

3代皇帝と軍事政権 FILE1

宇宙暦177年7月14日、その日、ゲーディア皇国は悲しみと不安に満ちていた。

と、まぁ、そんな見出しが似合う皇帝、それが3代目「サロス・ソロモス」である。

現に皇国国民は、パウリナ帝が退位して兄のサロスに帝位を譲位したとニュースで流れると、多くの国民が悲しみ、また新帝に対して不安を感じたと記録されている。

何回も言っているので省くが、この国の首都の特殊性によって7月事件(事変)が起こった時点では、皇国民の誰もがこれほどの事件が起こっているなどと露ほども思わず普段の生活を送っていた。そのため、一週間後の14日にパウリナ帝が退位する事を表明した時、多くの国民が驚き、そして悲しんだのだった。そしてその際にクーデターの事を知った。無論、その前に何かの噂や情報を掴んでいた者もいるだろうが、殆どの国民はニュースで知ったのだ。

そして更に国民を驚かせたのが、パウリナ帝の後継者がサロスであると言う事だろう。皇族の中で、最も国民からの人気が無かった彼が、皇帝になると聞いて国民の心中は如何許りだったのか、その点について取材をして見たが、皆一様にパウリナ帝の退位にショックを受け、サロスの即位に落胆したようである。まぁ、取材中に1人可なり騒いでいた奴がいたが‥‥‥。

そんな皇国が悲しみと落胆に包まれながらも誕生したサロス帝はいかなる治世を敷いたのか? これからそれを解説して行こうと思う。

その前に、今更ながらゲーディア皇国の歴代皇帝を紹介しようと思う。

初代皇帝・ウルギア・ソロモス(在位期間152~170年)

2代皇帝・パウリナ・ソロモス(在位期間170~177年)

3代皇帝・サロス・ソロモス(在位期間177~189年)

4代皇帝・ノウァ・ソロモス(在任期間189~193年現在)

宇宙暦193年の今現在は、パウリナ帝の娘であるノウァ皇女が女帝として君臨? している。41年の間に4人の皇帝を輩出したのだが、3代目のサロスはその中でも知名度が著しく高いのである。その理由は彼の政策のインパクトにある。そして彼が今日の皇国を作ったと言っても過言では無いからである。

と言う訳で、皇国史上もっとも波乱に満ちた皇帝「サロス・ソロモス」の治世を見て行く事にする。

それにあたって私は彼の治世を2つの期間に分けて解説しようと思う。

ひとつ目は軍事政権時代。これは彼が軍事政権側が立てたお飾り皇帝としての時期と言っていいだろう。

ふたつ目が親政時代。これは軍事政権が崩壊し、自らが政治に乗り出した時期である。そして彼が如何にして狂った皇帝「狂皇」と呼ばれる様になって行ったのかを見て行こうと思う。

ここで一つだけ事前に言っておかなければならない事がある。サロス帝を「狂皇」と評したのは皇国民ではなく、エレメスト連合国民である事を告げて置く。

まずはひとつ目の軍事政権時代である。軍事政権は勿論サロスが皇帝に即位したと同時に発足される。

サロス自身は完全なお飾り皇帝ではあるが、皇帝には絶大な権力があった。所謂「皇帝の意思は法よりも重い」である。皇帝が言えば違法だろうと憲法違反だろうと、従わなければならないと言う事である。こう言うところがゲーディア皇国が専制国家である事を物語っている。これは初代ウルギア帝の下で考えられた事でもある。

彼は、元々は民主国家であるエレメスト連合政府の議員であり、別に民主制に疑問を持ても絶望してもいなかった。ただ民主制のデメリットも知っているためそれを補う装置として自らが皇帝となり、特に政策の速さと言う事に関して一部専制を採用しているに過ぎない。なので皇国には議会があり、政策は国民に選ばれた下院(民衆)議員たちによる内閣が行っていて、皇帝や貴族(上院議員)は彼らの決めた政策を精査するに留まり、万が一急を要する様な事態でも起こらない限りは皇帝が何かを決断する事は無い。幸運? な事にウルギア帝時代は殆どそう言った事態に成らずに済んでいた。

彼の跡を継いだパウリナ帝は、平和条約としての「パウリナ条約」を提案し、皇帝の名の下に推し進めたため、初めて皇帝としての権限を執行した皇帝かもしれない。ただそれを彼女の周囲の人間の権力への欲望に使われ、悲劇的な結果を生んでしまったのかもしれない。

当然ながらこの絶大的な権力者である皇帝を、軍事政権の幹部たちが利用しない訳が無い。軍部によって結成された内閣の政策は、皇帝を介して誰からも反対される事なく施行されるはずであった。が、此処に思わぬ障害が現れ、軍事政権はスタートから躓く事となる。

7月事件でのクーデターを成功させ軍事政権を発足させた軍部は、クーデターの功労者として議長を務める事となったロイナント大将による初心表明から始まり、今事件の原因でもあるパウリナ条約の破棄を宣言、そのまま次の議題に移るかと思われたが、此処で予想だにしない事が起こる。なんと軍上層部のツートップである軍令本部総長と、軍政省大臣(総長)が揃ってパウリナ条約継続を表明したのだ。これにはロイナント大将始めとした反条約派の将軍たちは驚いただろう。

下は会合に参加した軍事政権の9人の委員たちと、彼らがパウリナ条約破棄か継続かの何方なのかを表している。

北部方面軍司令官「トマス・ロイナント大将」(条約破棄)

北部方面軍第5軍団長「コール・ド・ダメル大将」(条約破棄)

南部方面軍司令官「エメルダル・ジネラー大将」(条約破棄)

西部方面軍司令官「カウディ・ヨハンガ大将」(条約破棄⇒継続)

東部方面軍司令官「ジャン・ダイ大将」(参加拒否)

軍令本部総長「ルジェウス・カーネラル上級大将」(条約継続)

軍政省大臣「トルス・ミニッツ上級大将」(条約継続)

中央情報本部長官「スキム・アル・マハァル・アマート中将」(条約継続)

軍政省財務管理局局長「フォウ・チュン中将」(条約継続)

国防宇宙軍司令長官「サム・マシャート大将」(条約破棄)

因みに東部方面軍司令のジャン・ダイ大将が不参加を表明したので、代わりに軍政省財務管理局長が参加しているが、基本的には軍令関係の軍人が多いが、この政権の成り立ちを鑑みると致し方ないのかもしれない。

では、なぜ軍のツートップはパウリナ条約の継続したかったのか?

それは条約を破棄した場合、エレメスト連合軍が大手を振って軍拡に方針を切り替える事が出来るからである。国力差が圧倒的優位な連合軍が軍拡をすれば、皇国軍に勝ち目はなく、最悪戦争になりかねず、そうなれば「敗北か」「降伏か」の地獄のような二者択一になってしまうためであり、今は軍縮を渋って停滞させてはいるものの、条約のお陰で軍拡は出来ないので、条約継続は皇国にもメリットになると両総長は考えたのだ。

そのため両総長は敢て危険を冒す様な事はせずに、今行っている軍縮の停止だけで良いと主張したのだ。これならもし皇国の軍縮が停滞した事をエレメスト連合が抗議したとしても、連合軍の軍縮停滞を理由に突っぱねればいいだけである。

軍のツートップが条約継続を表明した事で、西部方面軍司令官のヨハンガ大将は条約継続に鞍替えし、初会合はパウリナ条約の継続に決定して閉会する事になる。

だが、これで北部方面軍をはじめとする反条約派が諦めた訳では無く、継続派委員の説得や周囲の士官たちを自陣営に取り込もうと裏工作を始め、継続派委員も、対抗したため両派閥の対立は深まる一方であった。これによって軍事政権内では条約破棄派と条約継続派に分かれる事になり、7月事件以前に戻ったと言っていいだろう。

こうなると7月事件とは一体何だったのだろうとも思う。

軍事政権の内部抗争により、政治の停滞が始まって国民はさぞかし不安だっただろうと思うが、案外そう言う事は無く、国民は普段と変わらない生活を送っていた様だ。それと言うのも皇国では、各都市の行政は領主貴族が執り行って、国政に関しても官僚たちが滞りなく行っており、軍事政権が混乱したとしても、今までの行政システム自体が止まった訳では無いので、これと言った問題は成らなかった様だ。

これはクーデター前の北部方面軍の秘密会議でネクロベルガー総帥(当時准将)が、軍部が政権を取らず、行政はこれまで通り議会に任せるの発言が、奇しくも流れ的にそうなってしまったとも言える。

だが、此処で対立する2派閥の争いが激化し災厄の結果を生む事となる。

クーデターによって軍事政権が設立して4か月が過ぎた11月16日、条約破棄派のダルメ大将が何者かに殺害されたのである。

この事件の直後会合が開かれ、ロイナント大将はじめとした条約破棄派の委員はダルメ大将の死は 、「条約継続派による暗殺である」と彼らを非難したのである。

これに対して条約継続派は、逆に「ダルメ大将の死は条約破棄派による陰謀だ!」と主張している。と言うのも、この頃になると、ダルメ大将は条約継続派の委員と頻繁に会っていて、継続派に鞍替えするつもりではないかと噂されており、自身は否定していたが、そうなっては不味いと思った条約破棄派に排除されたのだ。と、継続派は主張したのだ。

人は一線を越えると歯止めが利かなくなる。その言葉通り、ダルメ大将の暗殺事件は条約破棄派、継続派、双方の対立を激化させ、遂には武力による抗争へと発展する事になったのである。

次は軍事政権の内部抗争により、首都ミシャンドラでの武力抗争に付いての解説をして行こうと思う。