怠惰に創作

細々と小説の様なものを創作しています。設定など思い付いたように変更しますので、ご容赦ください。

3代皇帝と軍事政権 FILE4

ロイナント事件に使われた名称「ロイナント」は、軍令本部総長トマス・ロイナント上級大将の事である。では何故この様な事件が起こったのか、これからそれをかいつまんで説明して行く。

ロイナント事件は、宇宙歴178年11月~179年2月末まで続いた一連の事件の総称である。それでは、この事件の簡単な流れを見てみよう。

宇宙暦178年

・11月2日、ロイナンド上級大将が元帥昇進をサロス帝に要求。ロイナントの元帥要求に対し、盟友でもあるエメルダル・ジネラ―上級大将が激しく反発。両者は対立関係に発展し、多くの将校が彼に続いてロイナントに反発する。

・12月1日、サロス帝がロイナントの元帥昇進を承認する。

・12月21日、叙任式でロイナントは正式に元帥となる。しかし、ジネラーと数十名の高級将校(ジネラー派)が叙任式をボイコットする。

・12月29日、ジネラーがクーデターを画策してるとして、近衛軍がジネラー邸を襲撃、抵抗したためやむなく射殺される。さらにクーデターに協力した疑いで、軍人や軍関係者合わせて300名以上が逮捕される。

・12月30日、ロイナンドが逮捕者全員の処刑を命じるが、サロス帝によって中止になる。

宇宙暦179年

・2月27日深夜に近衛軍がロイナント邸を襲撃し、ロイナントを逮捕する。同時にロイナントの側近8名の逮捕に向かうも、ジョー・マール大将他2名の抵抗を受け已む無く射殺、その他の5名は逮捕される。

翌日、ロイナントは警備の隙を付いて逃亡を図るも、発見されて射殺される。

これがロイナント事件の簡単な流れである。此処からはひとつずつ説明して行く。

まず、ロイナンドの元帥昇進要求である。何故こんな事になったのか、それと何故これが事件の始まりになったのかを説明しよう。

ゲーディア皇国で初めて軍の最高階級である元帥位を得たのは、ドレイク・ネクロベルガーである。その後、元帥は彼だけの名誉称号として扱われる様になり、彼の死後は元帥位は空位となったのである。しかし、軍事政権の完全掌握の野心を抱いていたロイナントは、軍令本部総長や上級大将以上の地位を求め、それには元帥への昇進以外には無かったのである。

嘗ては軍令本部総長と軍務省総長(軍務大臣)を兼ねた文字通り軍の全てを統べる総司令官であり、後にドレイク自らが権力の集中による弊害が起こる事を避ける為に、上級大将と言う階級を設けて軍の権限を分ける形で権力を委譲させたのである。だが、ロイナントは自らが元帥になる事によって、逆に上級大将の階級を廃し、両総長の地位を我がものとする野望を抱き、それを実行しようとしたのである。

これはほぼすべての抵抗勢力を駆逐し、自分の権力把握の障害が無くなったとの判断だったのだろうが、彼の底無しの野心によって新たな障害が立ちはだかる事となる。此処まで盟友として一緒に歩んで来た軍務省総長エメルダル・ジネラー上級大将である。ロイナントが元帥になると言う事は、自分の付いている軍務省総長の地位を失う事になると言っても過言ではないし、元々は自分より下の人間だったロイナンドに追い越される形となるので、我慢できないと言う感情的な理由もあったであろう。

さらに元帥位は英雄ドレイクだけのものだと思っている多くの将校たちの支持を受ける事で、ロイナントと対決する姿勢を示したのである。

せっかくカーネラル、ミニッツ両総長を失脚させて軍での最高権力を手に入れたにも拘らず、又しても軍部内での派閥争いに発展する。資料を読んでいる内に「こいつら頭大丈夫か?」と思わず突っ込みを入れたくもなったが、結局は自分一人に権力を集中させたいと言うのが、権力を持つ者の性なのかもしれない。

一方、サロス帝はと言うと、当時の側近の手記にはこう記されている。

 

『皇帝陛下は謁見(元帥昇進要求)の際は平静を保っておられたが、軍令本部総長閣下が帰られた後、自室で酷く癇癪を起こされた。陛下にとって英雄ドレイク・ネクロベルガー元帥閣下は最も敬愛する人物であり、彼だけの名誉階級と化した元帥位を別の者に与えると言う事が我慢ならなかったのである。ただ、陛下は軍令本部総長によって即位したと言う経緯もあって、直接閣下の要求を無下にする事が出来ず、自らの無力さに対しての怒りだった様にも見受けられる』

 

この様に残されているのだ。するとここで疑問が出て来る。では何故、サロス帝はロイナントに元帥の地位を与える事を承認したのだろうか? 手記にもある様に逆らえなかったからという単純な理由かもしれないが、11月2日~12月1日までの間の約1ヶ月の間にある種の心境の変化があったのかもしれない。それについて側近の手記は特に記しておらず、他の資料でも確認されていないのでサロス帝の心は窺い知れない。

ただ、過去の皇帝の日々の業務を記した資料を確認してみると(普通に皇立図書館で閲覧できた時は、こう言った記録は一般人は見れないと思っていたから驚いた)、近衛軍長官やヴァザーゴ公と頻繁に会っていた事が分かる。皇帝が自分を警護する近衛軍の長官と会うのは当然であるし、ヴァザーゴ公にしても現在のサロス帝を支える貴族派閥の長なので、頻繁に会っていても何も不思議な事では無い様にも思えるが、この時の近衛軍長官はドレイクの息子のサリュード・A・T・A・ネクロベルガー大将である。彼がサロス帝を説得したとしてもおかしくない。

するとまた疑問が浮かび上がる。何故、サリュード・ネクロベルガーは父親だけの名誉職となっていた元帥の地位を、ロイナントに与える様に皇帝を説得したのだろうか?

これは結果論になってしまうが、軍事政権の崩壊を狙ったものではないかと思われる。結成からやっている事と言えば派閥争いでしかない軍事政権に対し、早々に見切りを付けて皇帝による政治(親政)を行おうとするものである。一応、現政権でもある軍事政権を皇帝が打倒したと言う事実を基に、サロス帝への権力集中を目論んだのかもしれない。あと、後に彼もその地位に付いているので、そのためのハードルを下げる意味でも一役買ったのかもしれない。

ただ、これだと軍部の人間であるネクロベルガーが、何故軍事政権を切り捨ててまで皇帝による親政に移行しようとしたのかと言う疑問も生まれて来るし、軍事政権を裏切った裏切り者の謗りを受けるリスクもあり、一見すると危険な行為にも見える。ただ、之も結果的でしかないが、現在のネクロベルガーに対して軍部の支持は高い。無論、全てでは無いであろうが、大多数の将兵は彼の父親に負けづ劣らず敬愛している者が多いとと聞く。

これ以上行くと、ネクロベルガー総帥の話になってしまいそうなので話を戻そう。

まず、12月1日にロイナントの元帥昇進が正式に決まる。

当然ながらこれにジネラー派は反発し、ジネラー本人は皇帝に謁見してロイナンドの元帥昇進の取り消しを要求しようとした。しかし、サロス帝は彼に会う事を拒否し、その事がジネラー派に更なる不満を煽る結果となる。

では、サロス帝は本当にジネラーと合う事を拒否したのだろうか?

答えは「NO」である。如何もロイナントによる裏工作の疑いがある。無論、具体的な事は何も記されてはいないものの、ジネラー派の将校たちはロイナント派の裏工作によってジネラーが謁見できないのだと、頻りに不満を漏らしている事が回顧録などに残っている。側近の手記にもロイナンドの圧力があったのではないかと言う趣旨の事が書かれていた。「確証はない」との一文を添えてではあるが‥‥‥。

そんな経緯の中で行われた21日の叙任式には、当然ながらジネラー派の将校は誰一人参加しないと言う事態になる。高級将校の4割弱が式典をボイコットした事は可なりの衝撃的な出来事でもある。それだけ英雄ドレイクが軍部で未だに崇拝されている軍人なのだろうとも思える。

(-ω-;)ウーン、式典で軍人が並ぶ枠がスッカスカだったんだろうなと思う。少しその式典を覗いてみたい気もしたが、余計な事は置いといて次に進もう。

こうして深い対立関係となったロイナント派とジネラー派だったが、叙任式から8日たった12月29日にそれは起こった。

軍人が自分の意思を通すために考える事と言えば大概決まっている。暴力に訴える事である。ジネラーはクーデターを計画(※)し、それを察知したロイナントは近衛軍にジネラー派の粛清を命じたのである。

此処で注目する点は、粛清をロイナント派が行ったのではなく、近衛軍が行ったと言う所である。ロイナントには、北部方面軍時代からの腹心の部下であり、その当時の北部方面軍司令官でもあるジョー・マール大将が居て、彼は上官のためなら自らの手を汚す事も厭わない人物で、数々の陰謀にも加担していると噂されている。しかしこの時は彼を使わずに近衛軍に命じているのは何故か? それはこの粛清をサスロ帝に対するジネラー派の反乱とする事で、ジネラーを賊軍として討伐する大義を得るためだと考えられる。ジネラーには皇帝に反旗を翻す動機がある。先ほども言った様にロイナントの元帥昇進の取り消しを訴えようとしたが、拒否られたと言うか会う事さえも出来ず、彼からすれば面目を潰された事になり、それが恨みとなって反乱を決意させた。と言う筋書きである。

では、ジネラー本人は実際にクーデターを計画していたのか、或いは全くそんな気は無く、ただロイナントにハメられてのだろうか?

当時から29日のジネラー派の粛清は、ロイナントの叙任式からたった8日で行われており、その期間の短さから以前から計画されていたと当時から噂されていて、ジネラーはクーデターなど考えてもおらず、ロイナントによって濡れ衣を着せられただけだと言われている。ただ、逮捕したジネラー派の将校が、取り調べでクーデター計画があった事を自白している。この証言からクーデター計画は事実であり、それを一早く察知したロイナントの英断であるとの意見が支持を得ている。

だが私が調べたところによると、計画があったと自白した将校たちは皆一応に軍籍を抹消され軍を除隊しているものの、其の後は多額の年金を貰って生活していて、何かしらの取引の疑いがある。なんせ、残ったジネラー派はロイナンドから全員処刑の命が下っていたのだから‥‥‥。

処刑は翌日の30日の早朝から実行される事になっていたが、当日になって急に中止命令が出される。理由はサロス帝が「年が終わるこの時期に、さらなる血が流れる事を余(俺)は望まぬ」と言って処刑の中止命令を出したからである。

ロイナントがよく承諾したと思うが、代わりに彼らには10~20年の禁錮刑が言い渡されて軍籍も剥奪された。とは言え、ロイナンド事件終結後に恩赦の形で許され、希望者は軍へ戻る事も許されていて、この処置によってサロス帝は彼らの忠誠を得ている。これもネクロベルガーの入れ知恵だと個人的には思っている。

さて、全てのライバルを排除し、この世の春の様な事態のロイナントであるが、彼もその2か月後に粛清の憂き目にあっている。

宇宙暦179年2月27日、午後11時にロイナントを始めとする数名の側近たちが、近衛軍の襲撃を受ける。ロイナンドは踏み込んで来た近衛兵に対して「お前たちを差し向けたのは皇帝の意思か!」と問い質すも、「答える義務はない」と現場指揮の近衛士官に問答を切り捨てられ、怒りにも似た苦悶の表情を向ける。しかし、抵抗はせずに素直に捕まっている。まぁ、抵抗しても射殺されるだけだと分かっていたのだろう。

その他の将校たちも殆どが抵抗せずに捕まったものの、ロイナントの腹心であるマール大将と、一緒にいた他2名の将軍とその護衛は激しく抵抗し、近衛兵と銃撃戦になって全員が射殺、或いは自決している。

翌日にはロイナンドが逃亡したと一時現場は大騒ぎになったが、1時間後に発見されるや否や射殺され、捕まった他の側近もその日に処刑されている。だが、処刑されたのはロイナントの最側近と言われる者たちだけで、その他のロイナント派の将校に付いては何のお咎めも無く、サロス帝は「これからも国のために尽くしてくれ」と言った趣旨の言葉を彼らに送っている。

これによって約4か月にわたって起こったロイナント事件は幕を下ろした。

逃げたロイナントを見つけるなり射殺する処など可なり横暴ではあるが、これには逸話がある。発見され確保されそうになったロイナントは、「誰のお陰で皇帝になれたと思ってるのだ! あの放蕩クズ野郎め!」と、王宮がある方に向かって叫んだと言われ、それを聞いた近衛士官が逆上して射殺したと言われている。これが本当なら、お飾りとか愚帝とか暴君などと揶揄されているサロス帝も、この時点では結構人望があったのだと意外性を感じてしまった。

あと、どうせ処刑してしまうのだと近衛士官が独断で発砲したのか、それとも最初から射殺命令が出ていたのか、ロイナントの射殺された経緯はハッキリとしない。当時の記録には「ロイナント元帥が逃走したため射殺」とだけしか書かれておらず、もし誰かの命令だとすると、命令は誰から発せられたのかと言う疑問が残る。7月事件からの恨みを未だに引きずっている近衛軍上層部の誰かによる指示か? それともサロス帝の指示か? はたまたネクロベルガーの指示か? それとも他に真実があるのか? 興味は尽きないが、それらは今となっては藪の中である。

事件後は、先ほども書いた様に投獄されたジネラー派の将校は皇帝の恩赦で釈放され、多くの者が原隊に復帰したが、これ幸いにと退役して年金生活に入る者も少なからずいた様だ。

言うまでもないが、民間人のいない首都ミシャンドラ・シティで起きたこの事件を国民が知ったのは、事件が終わった1ヶ月後の4月1日のニュースである。

此処では軍事政権が派閥争いに終始し、国政を顧みなかったために皇帝によって解散させられた事になっている。そして粛清があった事は隠蔽され、皇帝の鶴の一声で問題が解決されたとしていて、多くの国民からは皇帝として能力を疑問視されていたサロス帝が、実は才能がある人物だと思われる様な演出がされている。

このほかにも、国政はサロス帝を中心に貴族によって執り行われる事になり、民主院議員が永久解散する事などが公表される。

 

次回は、サロス帝の親政と、ゲーディア皇国最大の悪法と呼ばれる「人権剥奪法」について解説して行こうと思う。

 

 

 

 

※・ジネラー派の粛清をロイナント事件の中に組み込まれてはいるが、独立した事件として「ジネラー事件」と呼称される場合もある。